近代岡山の偉人伝 殖産に挑んだ人々

会場は無観客で開催
ライブ配信用のカメラ機材とスタッフ

左:近藤廉平(『近藤廉平傳並遺稿』より)
右:坂本金弥(個人蔵)

横浜市歴史博物館学芸員
吉井 大門 氏

吉岡鉱山(1894年頃、高梁市教育委員会提供)

シンポジウムの模様

帯江鉱山研究会役員
坂本 昇 氏

帯江銅山(1907年頃、個人蔵)

精錬所周辺ははげ山だった(田辺康弘氏提供)

第7回シンポジウム実施報告

「ダイナマイトと明治の夢」

公益財団法人山陽放送学術文化・スポーツ振興財団は8月19日(木)、国造りの根幹をなす「殖産」をテーマにしたシリーズ・シンポジウム「近代岡山の偉人伝 殖産に挑んだ人々」の第7回「ダイナマイトと明治の夢」を開催。高梁市の吉岡銅山を日本屈指の銅山に育て上げた近藤廉平と、倉敷市の帯江銅山を全国有数の銅山に育て上げた坂本金弥を取り上げた。
今回は新型コロナ新規感染者が増えているため、特別措置として、会場の岡山市北区の能楽堂ホール「tenjin9」は聴講者を入れずに無観客とし、その模様はYouTubeでライブ配信した。

出演者
横浜市歴史博物館学芸員  吉井 大門
演題:日本郵船社長前夜の近藤廉平
帯江鉱山研究会役員    坂本 昇
演題:帯江は後半生の出発点

阿波徳島藩医の二男に生まれた近藤廉平。1873(明治6)年、三菱商会が吉岡鉱山(高梁市吹屋)を買収したのを機に現地に赴任。西洋式の掘削技術やダイナマイト類を導入して業績を伸ばし、三菱の主力鉱山となって財閥形成に道をつけた。日本郵船を世界最大級の海運企業に育てた人物としても知られる。
岡山藩土肥氏家臣の長男として生まれた坂本金弥。1891(明治24)年、三菱社から帯江鉱山(倉敷市中庄)を購入。大規模化を進めるとともに、蒸気機関の導入や精錬も洋式溶鉱炉に切り替え、帯江を全国有数の鉱山へと成長させた。のちの山陽新聞社などを設立。衆議院議員としても約18年間活動した。

シンポジウムで吉井さんは、「近藤廉平ら三菱の代表が1873(明治6)年、吉岡鉱山の当時の管理者・山田方谷らとの丁々発止の買収交渉の末、1万円で譲り受け、343㎡の鉱区で経営が始まった」と三菱の鉱山経営の始まりを紹介。続いて「初期の吉岡鉱山には外国人技師以外に技師はおらず、採掘は経験と勘に頼った旧式の掘削方法だった。そこで近藤は、現在のようなキチンとした業務規則を制定し、鉱夫の給料も扶持米制から賃金制に変えるなど大改革を進めていった。また、吉岡鉱山が近代的鉱山として大発展を遂げる新たな坑道、第三通洞の開発も進めた。後に第三通洞では、洋式削岩機やダイナマイトも併用し三菱の主力鉱山を担うことになる」と述べて近藤の力量を高く評価した。そして「近藤は決して『頭の切れる人』ではなく、ある意味叩上げの実業家で、温和な、包容力のある人懐こい、人に好かれる人物ではなかったかと日記などを読んでいて思う」と近藤の人柄を推し量った。

講師の二番手は坂本金弥の孫にあたる坂本昇さん。坂本さんは「金弥は帯江鉱山をめぐる権利裁判に関わったことから鉱山経営に進んだ」とその端緒を説明した。坂本金弥はその後、帯江鉱山を全国有数の銅山へと成長させる一方、備前紡績、御野銀行、中国民報(現山陽新聞)などを次々に創業。基盤が整ったところで衆議院議員選挙に出馬し、岡山1区・7区でダブル当選し世間の耳目を集めるなど、通算で約18年間、議員活動を続けた。シンポジウムのなかで坂本さんは「1906年前後が金弥の全盛期で、“ヤマが当たり”豊富な資金をバックに、岡山県貴族院多額納税者議員互選人名簿で第1位になったほか、元岡山藩家老の屋敷を買収するなど数々の舞台を席巻するのだが、内田百閒は『いかにも成り金が勿体をつける為の趣向の様』と皮肉って風刺している」とも紹介した。

そして最後に、「金弥のハレの側面をお話したが、地域の課題として訴訟にも発展した鉱山開発につきまとう公害・煙害を忘れてはいけない」と結んだ。