近代岡山の偉人伝 殖産に挑んだ人々

シンポジウムの模様

矢野恒太((公財)矢野恒太記念会提供)

公益財団法人矢野恒太記念会専務理事
前田 和男 氏

稲刈りの実習(三徳園提供)

坂野鉄次郎(郵政博物館提供)

郵政博物館元館長
井上 卓朗 氏

郵便改革の基になった通信地図(郵政博物館蔵)

シンポジウムの模様

第9回シンポジウム実施報告

「近代制度を育てた人々」

公益財団法人山陽放送学術文化・スポーツ振興財団は12月9日(木)、国造りの根幹をなす「殖産」をテーマにしたシリーズ・シンポジウム「近代岡山の偉人伝 殖産に挑んだ人々」の第9回「近代制度を育てた人々」を開催。保険事業のパイオニア矢野恒太と郵便中興の恩人と称される坂野鉄次郎を取り上げた。

シンポジウムは岡山県のガイドラインをベースに、十分なソーシャルディスタンスが保てるよう入場制限をさせていただいたほか、公衆衛生面の対策を徹底するなど、より厳しい新型コロナ感染防止対策をしての開催となった。

出 演
公益財団法人矢野恒太記念会専務理事  前田 和男 氏
演題:「世間の人が喜ぶか、無くても良いと思うかを考えよ」矢野恒太
郵政博物館元館長  井上 卓朗 氏
演題:「郵便は薄利多売主義を守れ」郵便中興の恩人 坂野鉄次郎

備前国上道郡角山村(現岡山市東区)で生まれた矢野恒太(1866~1951)。第三高等中学校医学部(現岡山大学医学部)を卒業した後、ドイツに留学。保険制度を学び、農商務省に入って保険業法の制定に参画した。そして1902(明治35)年、日本初の相互保険会社である第一生命保険相互会社を創立。今日の国民総保険化時代への第一歩を開いた。一方で矢野は、私費を投じて農村青年教育の場として三徳塾を岡山市竹原に開設、後に岡山県へ寄付した。
津高郡野谷村(現岡山市北区)に生まれた坂野鉄次郎(1873~1952)。東京帝国大学卒業後、逓信省に入省した。逓信省で急激に利用が拡大する郵便物を効率よく捌くため、大規模で科学的な調査分析を実施。1906(明治39)年「年賀特別郵便規則」を定め、新しい組織や制度を導入するなど国家の情報基盤・郵便事業の改革・整備につとめた。「郵便中興の恩人」と称される所以である。坂野はその後、大原孫三郎に迎えられて電気事業に参画。現在の中国電力の礎を築いた。

シンポジウムではまず、矢野恒太記念会の前田和男さんが「『世間の人が喜ぶか、無くても良いと思うかを考えよ』矢野恒太」と題して講演。矢野が生命保険を始めるきっかけや当初の苦しい経営状況などついて紹介した。そして事業成功のポイントについて前田さんは「矢野恒太は特徴ある相互主義に基づいた経営を進めていくのだが、医師として診査に当たる経験を持ち、知見がある。また優れた保険数理人であった。海外で保険会社を勉強したのは矢野が初めてで、先進事例を学習している。そして、自ら法律をつくり、自ら監督で回っている。総合的なスペシャリストとして、それぞれの分野に非常に精通していたために、他の会社よりも優位な仕組みを作ることができた」と分析した。
また矢野は、当時国民病と恐れられた結核の予防に尽力したのだが、前田さんは「腹心の部下が若くして結核で亡くなったことや、結核での死亡割合が高く生命保険会社にとっても敵だということから、決算での剰余金を、役所の理解を得て『財団法人保生会』設立に充て、診査組織を東京の真ん中に、郊外に療養の組織をつくり、国組織の「結核予防会」ができるまで『結核予防運動』をリードした」と、結核へ取り組みの経緯を明らかにした。

続いて郵政博物館の元館長井上卓朗さんは「『郵便は薄利多売主義を守れ』郵便中興の恩人 坂野鉄次郎」と題して講演した。この中で井上さんは坂野の事業に対する基本的考え方について「ものすごく離れていても速く情報が通じる所と、近くても通じない所がある。地図上の地理的な距離と通信距離とは違っている。明治の時代に、通信と地理をこういう形でとらえており、非常に先進的な考えを持っていたことが分かる」と明らかにした。
そして、坂野の経営理念と経営方法について井上さんは「日本で一番大きい企業体を経営するのに、坂野はマネジメントの手法を使った。いろいろなものを計数化し、可視化する。つまり、最適値を認めるために必要ないろいろなものを作って規程化していった。主な改革としては『通信地図の作成』、『鉄道郵便の改善』、『年賀郵便特別取扱制度の確立』などが具体的なものだが、その数字が全国同じ基準で、各々の郵便局の中が不平等にならない形で管理できるように計数化していった。大変な変革と実作業だった」と、坂野が「郵便中興の恩人」と称されるゆえんを明かした。

なお今回も、シンポジウムの模様はYouTubeで配信した。