近代岡山の偉人伝 殖産に挑んだ人々

シンポジウムの模様

太田辰五郎肖像(個人蔵)

岡山県教育庁文化財課主幹
上栫 武 氏

千屋冬市(1883年、千屋牛振興会蔵)

左:山内善男(山内弘子氏蔵)
右:大森熊太郎肖像(岡山県立記録資料館蔵)

岡山県立記録資料館特別館長
定兼 学 氏

山内善男の原始温室「岡山の果樹園芸史」より

大森熊太郎の日誌(岡山県立記録資料館蔵)

シンポジウムの模様

第8回シンポジウム実施報告

「特産王国を夢見た人々」

公益財団法人山陽放送学術文化・スポーツ振興財団は10月21日(木)、国造りの根幹をなす「殖産」をテーマにしたシリーズ・シンポジウム「近代岡山の偉人伝 殖産に挑んだ人々」の第8回「特産王国を夢見た人々」を開催。現新見市に生まれ、家業の製鉄業を営みながら良質の千屋牛を産出した太田辰五郎(1802~1927年)と、現岡山市生まれで県内初のガラス温室を建てマスカットを開発し、果物王国岡山の礎を築いた山内善男(1844~1920年)・大森熊太郎(1851~1902年)を取り上げた。

シンポジウムは岡山県のガイドラインをベースに、十分なソーシャルディスタンスが保てるよう入場制限したほか、公衆衛生面の対策を徹底するなどより厳しい新型コロナ感染防止対策をしての開催となった。

出 演
岡山県教育庁文化財課主幹  上栫(うわがき) (たけし) 氏
演題:太田辰五郎の地域振興 -たたら吹製鉄と千屋牛市-
岡山県立記録資料館特別館長  定兼 学 氏
演題:原始温室で実りを結ぶ

シンポジウムで岡山県教育庁の上栫武さんは、太田辰五郎の活動について「家業のたたら吹製鉄業を継いで富を蓄えることに成功。江戸城西の丸の修復に多額の寄付をしたほか、飢饉に際したびたび、年貢を払えない地域住民に代わって税を払うなど、私財を投げうって地域の住民の救済にあたった。特に、未曽有の大凶作といわれた天保の大飢饉で、自分のもつ穀物や金を拠出し、さらに耕作のための牛馬を購入して窮民に与えるなど、働く人の実情を鑑みて救済事業を展開した」と、国や地域に報いることを第一に据えた辰五郎の生きざまを高く評価した。
続いて上栫さんは、千屋牛の育成・作出について「関東をはじめ近隣の優良牛との交配を繰り返し良質の肉牛を開発してきた辰五郎だが、牛馬の取引を行う千屋市を、1834(天保5)年に自宅敷地内に開設した。地域住民が飢饉で苦しんでいるので救済の一助にと始めたのだろう。市にかかる税金その他の費用は辰五郎が負担し、市から生じる利益は市の運営に関わる人々に分与した。市は辰五郎の家業がかつての勢いを失いつつある中でのスタートだったが、すべてを投入してその規模を拡大していった」と、市開設の経緯を明かした。
そして「現在の千屋牛には厳しい基準があり、当時の牛が現在の千屋牛とイコールでは結べないかもしれないが、辰五郎がその元を作ってきたことは間違いない。地域とともに歩んできた太田辰五郎は『持てる人の矜持』を行動で示した人物だ」と結んだ。

二番手に登場した岡山県立記録資料館特別館長の定兼学さんはまず、ブドウ栽培について「山内と大森は山林2ヘクタールの払い下げを受け、アメリカ産のブドウを導入してブドウ栽培を始めたがうまくいかず、試行錯誤を繰り返した末、1884(明治17)年兵庫県の国立播州ブドウ園よりヨーロッパ産のブドウを導入。2年後ガラス温室を建てて栽培に成功した」とブドウ栽培の端緒を説明した。その後、山内と大森は協力してマスカット栽培に尽くし果物王国岡山の礎を築いていくことになる。
ところで大森は、マスカット栽培の経過を記した日記をはじめ、書簡や講演記録などの資料を多く残しているが、定兼特別館長は寄贈されたこれらの資料を基に「2人は一緒に苗床作りから出回り始めたばかりの人造肥料の実験と研究、剪定方法の解明など、温室や互いの家で朝から晩まで激論を交わしており、お互いを高めあっていたことが見て取れる。また大森のある一日、1890(明治21)年4月1日の行動は朝温室に行きブドウの世話をし、正午に業界の会合に出て午後4時に帰宅し栽培の準備。夕方は温室に行き火を燃やす。そこへ山内が来て夜を徹して話し込むとある。このほか大森は山陽鉄道が開通する前、歩いて東京をはじめ関東や関西に出かけて行って営農指導を行っていた」と、大森がブドウ栽培に一生を捧げたことを明かした。
そして「今日の果物王国岡山は多くの先人が身を賭して地域のために尽くした結果だ」と結んだ。

なお今回も、シンポジウムの模様はYouTubeで配信した。