会場の模様

長崎歴史文化博物館研究所元所長
原田 博二

文化ジャーナリスト下山 宏昭

岡山大学学長槇野 博史

児玉順蔵の子孫兒玉 峰男

第8回シンポジウム実施報告

シーボルトになろうとした男たち

公益財団法人山陽放送学術文化財団は8月25日(金)、シーボルトが長崎に開いた鳴滝塾に留学し医療県岡山の礎を築いた医師をテーマに、シンポジウム「岡山蘭学の群像8 シーボルトになろうとした男たち」を、岡山市北区の山陽新聞社さん太ホールで開いた。会場は大勢の歴史ファンで埋まった。

シーボルトの鳴滝塾に学んだのは、帰郷後備中足守藩医に登用された石坂桑亀(1788~1851)、岡山で開業し、後に幕府の蕃書調書に出仕した石井宗謙(1796~1861)、備前蘭学の祖といわれる児玉順蔵(1805~1861)の3人で、それぞれ蘭学と西洋の最新医学を学び、また日本の学問書をオランダ語に翻訳してシーボルトの日本研究を支えるなどした。

帰郷後は数奇な運命を辿る門人も出たが、彼らは西洋医術の地域移植の担い手として質的・量的向上をもたらし、多くの門人を育て、それらは岡山大学医学部の前身・岡山藩医学館や岡山県病院の開設に発展していった。

シンポジウムではまず、長崎歴史文化博物館研究所の原田博二元所長が基調講演。全国から俊英が集まった鳴滝塾について「シーボルトは目の前で説明しながら手術や診察を行うなど組織だった教育を行っていた。学生たちのレベルは相当高かった」と語った。

文化ジャーナリストの下山宏昭さんは「シーボルトの種をまく 備前蘭学の祖児玉順蔵」と題して、順蔵の生涯について語り「西洋医学書を翻訳するなど医学発展に貢献したのに、保守的な岡山藩では特に西洋医学は評価されず、実力を発揮できなかった。もし岡山藩が順蔵の実力を正当に評価していれば、その才能と岡山の医学はもっと早く、大きく花開いただろう」と惜しんだ。

最後に「蘭学の華ひらく 岡山藩医学館の150年」と題して講演した岡山大学の槇野博史学長は「漢方も学んだ石坂桑亀は和洋折衷の外科術の分野でさまざまな人材を育てた。維新直前になって岡山藩でも合理的な医療を求める機運が形成され、岡山藩医学館の開設につながっていった」と結んだ。

今回のシンポジウムには児玉順蔵の子孫、順蔵から数えて4代目の兒玉峰男さんが参加。児玉家のその後の活動について話した。峰男さんは神戸市で内科医院を開業している。

「シンポジウム岡山蘭学の群像」は、鎖国のなかで日本の近代化を牽引してきた岡山ゆかりの蘭学者をテーマに、その業績と最新の研究の成果を紹介するシリーズ・シンポジウム。次回(第9回)は、静電気発生装置「エレキテル」を製作したマルチ人間平賀源内をテーマに「江戸のエレキテル・マン平賀源内」と題して、12月4日(月)山陽新聞社さん太ホール(岡山市北区柳町)で開催する予定。