「2025年」

 パリの日本文化会館が出来て、ことしは20年目になる。記念して日本を代表する建築家の大先輩「坂倉準三展」が大々的に開かれている。1930年代にル・コルビュジエの建築事務所に入り、日本の現代建築を導いた人である。最後はパリの日本大使公邸の設計に携わっていられるところで亡くなられた。日本各地に市庁舎など沢山手掛けていられるが、良く知られているのは鎌倉近代美術館だろうか。会場の始まりに、当時の坂倉準三が弟子に入れて、1930年から工事に取り掛かり1933年12月に完成の、ル・コルビュジエが建てた「救世軍困窮者救助センター」の建物の図面も出品されている。地下鉄の駅から2キロもトコトコと歩かねばならないパリ南東の辺鄙な場所で、現在地下鉄ミッテラン図書館駅が開通して多少便利になったとはいえ端っこである。今は世界文化遺産の巨匠でも、パリで取れた第一号の初めての仕事はこんな物しかなかったのだと、スケッチに通っていたころ思ったもので、市内真ん中にある大きな仕事などを、頼む人はなかったのが良く分かったものだ。それから独立して1937年、芸術と技術のパリ万博では、日本館建物を坂倉準三が設計施工、一等金賞となり、世界に認めさせた出世作が、図面と模型が出品されている。もう日支事変に入り、南京占領の年である。日本風のものが建つと思っていた日本当局に、とんでもないものが出来上がって来て困惑され、展示の会議からさえも建築家の坂倉はボイコットされる。日本の商工省を中心に展示された出品物は、デパート式のがらくた品や、調子はずれの勿体付けた日本の発明品など支離破滅の展示品と、散々な当時のパリ批評が残っているが、軍部がはびこり始め、オイコラで役所も権威を振るっていた時代が思い出される。建築も理解されず、みっともないと日本当局は、建物コンクールの参加に必要な自薦手続きさえも辞退していたのである。ところがフランス側の審査委員長の決断で、参加あろうとなかろうと、構わずグランプリ1等に受賞、一躍して坂倉準三は国際的近代建築家にデビューしたのであった。7月半ばまで展覧会は続いている、やはり歴史をたどってみると、こんなことは展示も表示もされていないが、興味深い展覧会なのである。

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