サンティアサント通り
ポルト・マイヨーの
パリ国際会議場
 

「桜満開のパリ・四月」

 しかし、私の心配なのは、60人ほど集まったのだが、日本人記者が誰も来ていない事である。中国の記者など、テレビカメラまで持ち込んで、結構パフォーマンスやっているが、日本の支局長や記者連中は、現れないのである。比較的、日経の安藤支局長さんだけは熱心で、いろいろなところに、こまめによく出席され感心していたのだが、昨年暮れ帰国されたし、日本大使の日本人記者向け懇親会などというと、精勤に日本政府に顔を向けているようだが、国際社会へのパフォーマンス、参加度はまったく低いのである。50年の歴史のパリ外国人記者会の分厚いリストにも、各社の名前さえない。
 国際記者社会への顔出し参加は支局長の職業義務だと、この実情を飯村日本大使に話したが、個人のことなので、国として強制もできないのでと、ご返事もいただいている。日本が国際社会への登場を許されたのはサンフランシスコ条約批准後で、国連加盟の認められたのが1956年、世界に仲間入りしたいと、以来フランス語の会話は苦痛でも、先輩記者たちも努力していたものだった。世界2位の経済力まで登り、バブル時代は持ち上げられて、先方から寄って来たが、立場が変わっても、まだ頭の中は2位時代の積りらしい。男は黙っての伝統か、べらべら発言外向きの人は責任ポストに縁遠く、便利な通信機器の発達に頼り、オタク主義というのか、面倒な外国人社会との人脈作りなどは、むしろ巻き込まれないようにと注意しているようである。近年のまことに積極的な進出の、中国記者団グループの活動など見ていると、これで日本は世界に残れるのかなと心配な位なのである。
 以前は、原稿も郵便で着くまで一週間はかかり、電話も通信も今ほど自由でなかったから、支局長にも自由があったし、現地や人を知ろうと努力する時間があった。今のような即決の、時間に縛られた奴隷ではなかったからとも思うが、本社のあり方の問題かも知れない。

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